旧社名 (有)米澤神仏具製作所  
     
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昭和55年(1980)1月1日  “伝産ニュース”
発行編集 京都伝統産業青年会 広報委員会
新年のごあいさつ
京都伝統産業青年会 会長 米澤正文
  明けましておめでとうございます。昭和55年、皆さんにとって、また、伝産青年会にとりましても、良い年であります様に祈念いたします。私は、会長に就任以来「青年会活動は、人間練成の場」との認識に立ち「信じ合う、行動する、和合(組織の確立)」を基本に運営を行ってまいりました。
幸い、この3年間、36単位青年会の皆様に絶大なるご協力を得て、伝産青年会も着実なる歩みをとげてまいりました事に、深く感謝申し上げます。さて、1970年代は激動の時代でありました。高度成長より低成長、そして昨今、不安定・不確実の時代と云われています。しかし、この不確実な時代に一番確かな確実とは何なのでしょう。それは、私自身であり、自身の仕事であり技術であると思いますが、ややともすれば、閉鎖的になったり、利己主義になりがちです。伝産青年会では、昨年より伝産振興委員会を設置し、会員の意識調査から今後の業界の方向付けを中心に活動を行っております。
どうか、積極的に参画頂き、大きく視野を広め厳しい80年代を、皆様の英知と団結により、業界発展すなわち自らの飛躍の為に頑張ってまいりたいと思います。今年もどうか宜しくお願い申し上げます。
昭和55年(1980)  幼稚園の機関紙に投稿
京都市立楊梅幼稚園 会長 米澤正文
  「幼稚園・PTA・教育」これらの言葉を身近に接し 又、体験するのは、何十年ぶりの事であろう。現実には、我が分身である娘や息子を通してである。父親として何も考えず年齢に達したから入園させた、「おめでとう」口先だけの子供に対する愛情であったのかと、振り返る機会を得られた良い機会であった。今感謝で一杯である。広辞苑を取り出し、PTA(父母と教師が協力して教育の効果を上げるを目的とする団体)、教育(教え育てること、導いて善良ならしめること、人を教えて知能を付けること、社会のもつ基本的機能の一つ、人間に他から意図を持って働きかけ、望ましい姿に変化させ、価値の実現する活動)調べた。
しかし、活字である生の声、響きがない、教育は教えるものではない、学ぶものなのだ、私も親の姿を見て成人してきた。我が子もまた私達夫婦を見、先生や園児たちによって大きくなるのであろう。与えられた職務を天職ととらえ一身に打ち込むしか真の教育はないのであろうか、と自身に言い聞かせている昨今である。最後になりましたが、諸先生の園児に対する真剣な接し方に対し、頭の下がる思いでいっぱいです。しかし、幼Pの会合や各委員会で感じること、先生は日常幼児に接している様にもっと自主性を、又、保護者の皆さん先生を信頼しょうではありませんか、保護者はあくまで園と幼児の連絡を図ることだと思います。 
 
昭和56年(1981) 卒業制作両親の肖像画
 京都市・醒泉小学校  津田 幸男
 
 前文省略3)仏像づくりの父が、夜遅く作業衣のまま帰宅したところを描く
 
    仏像づくりの職人としての生き方に誇りを持ち始めた少女が描く、親方制度の中で、古い体質を改善し、自ら近代的な職人組合を作り、親方衆から迫害を受けながらも、のり越えて生きる父親の作業服のままを、もののみごとに描ききった。実は、このお父さん、育友会長さんだったが、ものをつくることに理解を示し、影になり、ひなたになりして、私を支えて下さった。すばらしい育友会長さんだった。
 (7)卒業式にも いきる肖像画
 
  卒業式の中で、両親の肖像画を入れる額縁が贈られる。育友会からの記念品は、毎年、五十pのものさしと決まっていた。
ところが、今年は、この子どもらの描いた作品を、家に飾る額縁にしようということになり、京都市の画材屋さんを走りまわり、パネル形式の安い額縁をみつけ贈って下さった。今も、卒業式の中で、ひとつの演出をするのを思いつかなかったのが、残念でならない。代表が、このパネルをもらいに行った時、自分の画いた両親を、その場所で、かかげなかったか、それを思うと、もう一度、卒業式をやり直してもらいたいくらいなのだが、そうすれば、出席した親も、それを見せる卒業生も、この肖像画の中で、しっかりと、結ばれていくようなきがしてならないのに、本当に残念なことだった。
 
 (8)おわりに
  この子らと別れて、夏休み、卒業生の保護者から暑中見舞いが届く、その文面には、早く私の預かっている肖像画を返してほしい、お父さんが、あれが家にないと寂しいといつてますので-----ということが書いてあった。私は、しまつたと思うと同時に、これほどまでに、この作品は、深く家族とかかわるようになっていたのかと思うと、今も生き続けているのだなあということがわかった。あちこちで、この作品を見せていることを、「いのち その後」に書き、借りているお礼をした。八年前、最初の卒業生を出した時、彼らは、二年間たまった作品を、私に上げると言って、随分たくさんの子が置いていったのと比べると、この二回目の卒業生とは、えらい違いだった。
 
昭和57年(1982)9月15日 京都新聞
 80年ぶりに完成、再奉納   
左京・三宅八幡神社 ジャンボ飾りミコシ
  左京区上高野の三宅八幡神社で未完成のまま明治時代の末期に奉納されていた飾りミコシが、約80年ぶりに仕上げられて再奉納。14日から始まった例祭にお目見えした。
このミコシは、京ミコシの中でも最大級の1番型。台輪で4尺(約1.2m)、重さが8百`を超えるジャンボ。秋の例祭の3日間、巡行しない飾りミコシとして拝殿に置かれる。奉納されたのは明治36年と古いが、寄進を計画した講が途中でつぶれ、資金が続かなくなってしまったためにヒサシなどの部分がウルシの塗られていない未完成のまま。早くから「なんとかしたいもの!」と声が出ていたが、最近になってウルシがはげ落ち、金具類が曇るなど、すっかり老朽化。
ことし初めに神社側や責任役員が「修理と同時に、仕上げて再奉納!」と相談がまとまり、5月から業者に預けて作業が進められていた。拝殿に登場したが1面に金箔が押され扉には極彩色も・・・。金具類もメッキし直されただけにまばゆいばかりで注目を集めている。同神社の田辺又一郎禰宜は「これで80年ぶりに、寄進してくれた人の思いもかなった。これからも大切に守って行きたい」と喜びを
昭和57年(1982)10月 京都新聞
「若手増え順調に育つ」   協同組合京都仏具工芸会理事長 米澤 正文
  「今振り返ると長かった様でもあるし、あっという間だった気もするし・・」と米澤さん、問屋からの完全な受注生産体制をとる京仏壇業界にあって、技術者の米澤さんたちだけで受注を行おうと組合を作り、共同作業場の京都仏具工芸会館を建設したのが4年前。
不況の中出の受注減、そしてスタート時には9人いたメンバーが5人まで脱会するという試練もあった。「そりゃ、抵抗は強かった」と言葉数の少ない分だけ、苦渋ぶりが推し量られる。「だが石の上にも4年ですわ。55年度の組合受注高は1億円を超え、目標を達成したし、受注残も8か月以上ある。それに今夏には我々の技術を習いたいという若手も増え、順調に育っているし・・・」と満足げ。「いい事って続くんですね。京都の三宅八幡神社からミコシの修理の注文を受け、解体したところ製作者の名があり、その中に木地師として私の4代前の先祖の名があったんです。
大げさなようだが血が上がるというか、大感激。苦労も多いが親からの仕事を受け継いで本当によかった。」これが職人冥利です」
平成3年(1990)1月26日
京仏具青年会 30周年記念誌
 編集・発行 : 京都府仏具協同組合 商部・工部青年会
 
工部青年会より  昭和45年〜昭和46年
第6代目   会長 米澤正文・副会長 矢島 昇・会計 林 光義
幹事 宮本義博 ・幹事 山本一登 幹事 花村穎
幹寺 八木一夫・ 監査 中谷 博
  万博記念で沸いた昭和45年に、会長を仰せつかりました。
伝統産業青年会とも、前会長との引き継ぎのため、協議会に出席し出会いました。当時単位青年会が集まり万博記念事業として「総合展」を開催しようと燃え、これまで仏具業界だけのつながりであったのが、他業界を知る事が出来今迄になかった新しい息吹を与えられたと思います。
早速商・工青年会合同の伝青総合展実行委員会を編成、5月より5カ月間、商工一体の取り組みは、9月3日〜6日催され「総合展」で京仏壇・京仏具を紹介しえたと自画自賛すると共に、個人の力だけでなく多くの人の協力でなし得ると言う団結の力の大切さも教えられました。46年度には、工部単独であった作品展も総合展等の商工の協調が成果となり、岡崎の勧業館にて、共催で作品展が開催出来ました。
又、伝青主催の第一回海外研修、欧州伝統工芸視察2週間に同行した事もあり、思い出はつきず、私にとって大きく目を開いて頂いた2年間でした。
工部青年会より  昭和47年〜48年
第7代目   会長 米澤正文・副会長 矢島 昇・会計 江里康則・幹事 千田忠昭
幹事 安澤保雄・幹寺 岡本誠太郎・幹事 山田文雄・監査 八木一夫
  前期に続き会長を仰せつかり、46年に盛況に催せた作品展を、「本年もより盛大な作品展」を合言葉に、商部青年会の協力のもとに、伝青に大丸コーナーという展示即売場があった事、工部青年会が数年前から府の新製品開発に参加した数点の製品の発表する場がなかった事などより、勧業館と大丸の2会場での作品展が成功裏に終えることが出来ました。
48年は、伝青10周年記念事業として、第2回「総合展」が開催され、伝青の広報委員長を兼務した事により、半年間2日に1回程度の会合に追い回された様であり、会員の多数も伝青に出向し同じ思いであったと思います。そんな中で「手づくりの詩」も作成されました。
次女が総合展開催中の9月17日に誕生しましたが、知ったのは明朝という事もあり誕生日が巡ってきたり、「手づくりの詩」を見るたびに当時が懐かしく思い出され充実した青春であったと今、皆さんに有難うとお礼申し上げたい気持ちでいっぱいです。
 
     
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