旧社名 (有)米澤神仏具製作所  
     
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昭和47(1972)年4月1日   人生ジャーナル
  西欧諸国の伝統工芸
 
  米澤正文さん(29)仏具師は、このほど京都伝統産業青年会の一員として、ヨーロッパ諸国を訪問、各国の伝統工芸を視察して帰って来たばかり、十六日間の研修旅行に何を見て、なにを学んできたか、日本とヨーロッパの伝統産業の違いなどを語ってもらった。次はその飛び歩き印象記  
 私はこのたび京都伝統産業青年会の一員として、ヨーロッパ諸国の伝統工芸品を視察してきました。デンマーク、西ドイツ、スペイン、イタリア、フランスなどがその主な国です。

日本の伝統工芸が、ようやく昨今見直されてきたのにくらべ、ヨーロッパの現状はどうなのか、どのように維持され、継承されているのか、さらに後継者問題は、という多くの問題を視察してくるのが目的でした。
各国を回ってみて、誇りに思ったことがひとつあります。昔から続いてきた日本の工芸技術がヨーロッパにくらべて、少しも劣っていないということでした。特に京都の伝統産業はどこの国々よりも、技術的に素晴らしく大きな自信がもてました。 
   最初にデンマークの首府コペンハーゲンに行き、デンパルマネントと呼ばれる展示会場を見学しました。これは国の伝統的な木工、木製工芸品を恒久的に展示してある会館で、工芸品の即売所でもあります。
     
  会館の運営は各職場の組合で構成され、会員が工芸のデザインや制作をして即売をするわけです。かなり高度のものが作られて、近代的なデザインのものが多かった。しかし日本とくらべれば、歴史がまだまだ浅く、伝統的な工芸品が少なかったようです。
西ドイツでは、独自のマイスター制度(国家試験)があり、これは技術をみがくための試験です。見習工、熟練工、マイスターの順番で、試験が分かれています。マイスターは最高の位なので、みんなこれを目指して頑張っていました。
 
 

ところで技術者が国家試験を受ける費用は、すべて国がもってくれるのです。日本ではとても考えられないことです。それほどドイツでは、後継者育成に力を入れていました。スペインのマドリードでも国営の伝統美術工芸センターがあります。ここでは、王朝時代からの美術工芸品を保存し育成するため、国が技術者を集め、材料から製品まで、一貫して生産していました。家具、陶磁器、織物などはそのなかでもすばらしいものでした。センターで材料から製品まで一貫して生産することは、われわれにはちょと信じられないことです。そうしなければ伝統的美術品は、絶えてなくなってしまうということでした。日本では家内工業的に採算しているのですから、伝統工芸品に対する愛着は、民衆の心に残っているといえそうです。
 
 
いまのところ国営のセンターを作らなくても、絶えることはないでしょう。 ヨーロッパと日本との大きな違いは、伝統工芸の伝承の仕方でした。ヨーロッパでは大きな組織をもち、それお国があとおしをして生産しているのです。いわば工芸者が、技術だけをマスターして機械的に受け継いでいます。しかし日本では、家業としてやっており、ひとつひとつの作品に深い愛情がこもっています。このような長所をわれわれ日本人はもっているのですから、のばさなければならないと思いました。
 
   
 
しかし、こういうことがありました。ある小さな時計工場へ行ったときです。彼らは、小規模ながら手仕事で時計の製造をしていました。現代では近代的な工場でつくられるのが普通です。そこで驚いたことは工員が『手仕事』ということに非常なプライドをもっていることでした。彼らは胸を張って(われわれはこの手でやっているんだ)とこたえました。
日本では、まだまだプライドが足りません。手でやっていることに、なにか劣等感をいだいているというのが現状ではないでしょうか。深く考え直さなければならないと思います。
 
  日本は仏教のさかんな国です。知らずしらずのうちに仏教的精神が、われわれの体内にやどっています。この精神を尊重しなければなりません。西洋にないものです。これを工芸品の中に生かして日本独自のものをつくっていかねばならないと思いました。  
   
 
昭和48年(1973)9月十19日
  京都の伝統産業  手づくりの詩  
(京都伝統産業青年会発行)        あとがき


  京都の伝統産業や、手仕事についての書物は、これまで多くの諸先生によって紹介されてきましたが、私達伝統産業に携わる立場から、これまであまり知られなかった複雑な仕事を、ありのまま理解していただければと作ってみました。
 
    私は、仏具の木地を作る職人でありながら、初春、伝統産業青年会広報委員長と言う大役を仰せつかり、未経験ながらこの冊子の製作を担当して参りました。ここに、この様なかたちで、発刊をみることが出来ました。振り返ってみれば、四十八年二月より幾度となく、役員会、広報委員会と協議を重ねて、五月より七月中旬迄の短期間に、実に百三十数軒もの職場への取材を終えることが出来ました。これもひとえに、役員、広報委員をはじめ、会員二千名ひとりひとりの伝統産業に対する熱意の賜ものと喜んでおります。最後に、企画から取材・編集にと日夜努力して下さった久保充氏をはじめ、クロウ・デザインルームの方々と日本写真印刷(株)の方々にはご努力を賜り、心からお礼申し上げます。また特に京都国立博物館、切畑健先生には友禅について御執筆いただきました事、心から感謝いたしております。皆さん本当に有難うございました。  
                               昭和48年9月             
   京都伝統産業青年会 広報委員長 米 澤 正 文  
   
  昭和48年11月1日   11月号  「月刊京都」
 「伝統産業村」構想に未来の夢を託す 伝統産業の若者たち
 
  ルポライター 渡 辺 敏 夫  
   
   去る9月19日から23日まで、京都市勧業館において、「京都伝統産業総合展」が開催された。会期中は参観者がひきもきらさず、市民はもとより、東京からやってきた好事家、旅行のあいまにこの好運にであった若い女性たちの姿もあり、いまさらながら京都の伝統産業への関心の強さに驚かされた  
  次代のパーソナリティ---------伝統産業青年会  
 
伝統産業あるいは、手づくりといわれ民芸とも呼ばれるものが、いま盛んに取沙汰されている。これは、公害と機械文明の破錠からくる人間性への回帰だと、一般には説明されてようであるが、いま伝統産業といわれているものを早くから愛用している人もあるはず、それは一部の仕合せな人であったかもしれない。だから次のようにいうこともできる。不仕合わせな人が幸せを知った喜びといったものがこの伝統の品々にはあるのではないか。伝統産業に携わる人の中にも、仕合せを知った人がいる。

 
   総合展の中心的な推進者として活動した、京都伝統産業青年会の広報委員長を務める米澤正文さんもその一人である。「今でこそブームと言われていますが、これまでの私達の歩みはけっして平たんではなかったんです。伝統産業という名で私達の世界をひとまとめにして言われても、実際はバラバラ。私自身仏具の一職人であって外の事はまったく視野がおよばなかった。けれどもこの青年会が結成されて、同じ仲間の存在を知り、先輩にいろいろ学んだりしたことによって私自身の目が開けたし、この産業の未来に明るいものを感じることが出来ました。もしそれがなければ、今のブームにも乗り遅れただろうし、私も一職人のまま終わったかもしれない。偉大な先輩の教えは、京都の歴史にも生きています。なかでも明治維新の京都復興事業におけるあの力強い精神には習うことが多いですね。私達には、何をなすべきかという問いがいつもあるのです。」力を込めて語る米澤さんの表情は、仕合せな人のそれであった。“私達は何をなすべきか”という問いから、前回(昭和45年)と今回の総合展が生まれたと米澤さんはいう。この京都伝統産業青年会は、伝統産業が斜陽を浴びていた昭和38年に結成され、当時15団体千名の会員であったのが、現在45団体二千名を数えるまでになったという。米澤さんの言葉に代表されるように、ここにはセクショナリズムを脱皮した連帯があり、盛り上がった若者の心がある。  
   
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